自然農法の中でも、たぶんマイナー?
な気がする『自給農法』。
座学編シリーズは2回でまとめようと思ってはじめたのに…
気づけばすでに4回目。
まだ読んでいない方は過去記事もどうぞ。
今回が座学のまとめ最終回です。
『自給の畑=エサバ』を作るコツ
今までの内容を復習する意味もこめつつ、講師のジャンさんから聞いた『自給農法のコツ』をまとめてみました。
簡潔に箇条書きスタイルにしてます。
軽く流し見でどうぞ。
「畑にはスーパーに行く感覚で通い、必ず何か収穫して帰る」
『エサバ化の第一歩はエサをとること』行動⇒現実化
「畑に行くときは毎回、多面的に動くことを心掛ける」
一つの作業だけを目的としない。収穫・種まき・ケア・開墾まで一連の作業をセットで少しずつやる
「雑草を最大限活用する」
次世代土壌の活用・マルチや肥料のかわりに使用する
「収穫しながら成長を促し、収穫期が長くなるようにする」
収穫とセットで種をまく、間引きを大きいものからする、密集具合をみて移植を検討するなど。収穫は残った作物の成長のためであると認識する。
「”すべてはそこにある” ”その場所に答えがある” と知る」
自然の力は地球上のどこであっても必ず存在している。そしてその力を最大限活用する方法は、その場にしかない。知性とあわせて五感や感性・直観を頼りに最適とは何かを問い続ける。
もっと具体的な方法は「畑で講座編」と題して次回から書く予定です!
座学の感想:イヤでも自然の一部だと知った安心感
今回この『自給農法』を学ぶ前までの間。
私は独学で学んだ自然農法を下のように解釈し、実践してきました。
・人間ではなく自然が作物を作るのだから、自然にゆだねれば作物はちゃんと育つ
・自然に任せるのが最良。耕す必要はないし、農薬や肥料はいらないし、雑草は刈らない(もしくは最小限刈って活用する)。
ざっくり言えばこんな感じ。
でも、なんだかうまくいかなかった…
今回その原因が自分の中でハッキリしました。
大きなジャンルで見れば『自給農法』も同じ自然農法です。
しかし、今回『自給農法』の理論を学ぶ中で、
わたしのなかの『自然』という言葉の定義が変わってしまいました。
【講座を受ける前のわたしのなかの『自然』というもの】
「そっちのほうが正しい、あるべき姿。人間や科学はそれに反している存在。だからいかに自然に任せて自分(や人為的・人工的なもの)をなくしていくかが大切」
【アップデートされたわたしのなかの『自然』というもの】
「正しいとか間違いではなく、ただ『森に向かう力』がある。そして、その力に対抗するのか、調和するのかを選ぶことができる。自分(人間)もその一部として知性と感性をバランスよく活用することで役割を果たすことができる」
以前の感覚をもう少しわかりやすく極端に言うと、
『自然』が正しくて『人間』が間違ってる!
『人間』は『自然』に還るべきだ!(自然から離れたところに人間がいる感覚)
こういう罪悪感・分離感のような感覚が(無意識に)ベースにありました。
ところが、『自給農法』の理論を知れば知るほどに、この考え方から解放されていく感覚がありました。
アップデート前の、人間が自然から離れて敵対する存在になってしまったようなその感覚は、
『脳みそが作った妄想』
だったと気づいたんですね。
わざわざ「自然に還ろう!」とか言わなくても、人間はどうあがいても、イヤでも、すでに自然の一部である。
それを知って逆に安心した。
ぜったい逃げられないなら、その力に逆行するよりも、じょうずに活用したほうが『楽』(努力がいらない・楽しい)になれる。
その『自然界の力』をうまく活用して『楽』になる方法は、動物の本能を使うこと。人間的な言葉では『五感・感性・直観』。
『理論脳=左脳』や『概念化する前頭葉』ばかり使っていた現代人。
もっと『感覚脳=右脳』や脳幹とか小脳(反射・本能)などをうまく使えるといいのかも。
たしかに現代人は、無意識に自然と人間を切り離して考えている気がします。
『自給農法』では100人いれば100通りの農法になるのが当たり前なのです。
人間の感性。
もっと言えば、見ている世界はひとりひとりまったく違うのだから。
福岡正信式や川口由一式(自然農法)は、その方法論だけを真似しても、
うまく行かないのが当然だったんですね…
福岡式は、本質的には福岡正信にしかできない。
ということでこれからは感性と直観を信じて『masa–T農法』をやっていきましょうかねえ…
アヤシサ全開。
長々書きましたが『座学編』の感想でした。
まだまだ長い『実習編』に続きます。
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